9月2日の日記

今日は弟子入りを志願しに仕事終わりに大阪まで行きましたが、結局言い出せずに終わってしまいました。

どうなりたいかを聞かれたとき、とりあえずの目標を答えました。親が定年になるときに親と同じくらい年収があれば安心させてあげられるかな、と。
でも今の生活も楽しみたいとも言いました。きっとそのあたりから見透かされてたんだと思います。

じゃあ年収一千万稼ぐ方法を教えると言ったら、どうやるんですか?となるよね
それを聞いてどう考えるかを尋ねられたら、できるかできないかで判断することに気付いてしまいました。
内容を聞いて面倒くさいとか難しそうと感じたら尻込みしてしまうであろうことが想像できてしまったのです。

結局のところ私は考え方を変えていかなければならないということを真には理解していなかったのです。
求める結果のためならどこまででも自分を変えていくという覚悟を、即座に、明確に示すことができませんでした。

何の準備もせず挑んで痛いところをつかれて怯んだこともありますし、単に呑まれただけとも言えます。
できるできないではなく、欲しいか欲しくないか。なりたいかなりたくないか。

やりたくて仕方がなくなるまで学び続けるといいよ等と言われましたが、それはずっとそこで足踏みしていろということに近くないか。
何のためにアテもないのに仕事を辞めて引っ越しを決めたのか本当に分からない。私は労働者を辞めたくて退職を決めたのだ。

どうなりたいかといえば、働かずに暮らしたい。私が使う時間も金も、全て私のもの。私と私の大切な人、必要だと思うことに使いたい。断じて会社のためではない。私は私がなりたいもののためにこの身体と時間を使う。

・・・改めて考えると、こんな感じでしょうか。ただの労働者には戻りたくない、あと30年以上こんな生活を続けるのは嫌だというマイナスからの逃げには強い反応を示せますが、きっとプラスな志を示せるほうがいいだろうなとは思います。もう少し考えていかないとだめですね。